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2015年01月13日

型について

1.型の両義性 型には秩序と機能性を与える反面、不自由感を与えることもある。私はこの両義性を思い浮かべた時、バスケットやサッカーの得点を思い浮かべた。バスケットボール及びサッカーはチームスポーツであり、攻めの型が存在する。
ここではまず、自分の専門種目のバスケットボールについて述べたい。多くのチームは自らのチームで共通理解している攻めのフォーメーション(型)がある。フォーメーションを遂行することによって、ノーマークを作りだす努力をする。ただ、試合の40分の中で、自分達が同じフォーメーションを何度か使うことによって相手もそのフォーメーションを覚えてきて対応されるようになる。また、プロの世界や大学のトップでは、相手の攻撃の型について初めから研究され知られていることも多い。相手が型に対して対応してきたときに、ある種チームの決まった「型」から入り対応された時に、「型破り」を遂行し得点をとれる選手が必要となるのである。
また、サッカーで最近「個のレベルアップ」が叫ばれるようになった。サッカーの得点はバスケと比較しても、一試合を通しかなり少ない。すなわちサッカーはゴールがなかなか決まらないスポーツである。それを考えた時、型どおりにやっていても多くの場合守られてしまうということだろう。ある本では「サッカーで得点が入る時は『意外性』が起こったとき。すなわち、ディフェンスがあっと思った時である」というのを読んだことがある。チームの型の中での型破りが得点を生むのではないだろうか。
チームスポーツに於いて、「型」ということはチームの共通理解を生み出すうえで大変大切な要素であるのはいうまでもないが、得点を挙げると言う時はそのチームの型の中である種「型破り」ができる人間が必要になる、それ故に「型破り」ができる「個」というものの育成も同時に大切になるのである。

2.日本と世界の型 筆者は、日本人は型に対して顕著な文化現象を持っているということを述べている。私は海外留学や、外国人コーチに教わった経験もあるので、海外(特にアメリカ)の文化は少し理解しているつもりであるが、私が考える海外の「型」についてまとめていきたいと思う。結論を先に述べると型は文化の中にもスポーツの中にも存在するというのが私の立場である。
 まず文化的な「型」であるが、確かに日本よりも自由である種なんでもありという雰囲気が存在する。しかし、こと論理的に文章を書くことについては、かなり「型」を要求される。これは文法構造の違いからくる面もあるかもしれないのだが、英語では主張は文頭にくるパターンが多い。そして、文章を書くときにはthesis statement, topic sentence, concluding sentence等どこに何を書くかが決まっている。これは合理的を求める欧米が作り出した「型」と言えるだろう。日本の場合はこと文章を書くことに関しては、スタイルが各々に任されている。これは助詞に頼り意味を伝えるという文法構造によるという側面もあるだろう。結論を先に書こうがあとに書こうが個人の自由なのである。
 また、メンタルトレーニングという分野は一流選手が行っている心理的スキルを体系化したものである。これは、ロシアが冷戦中にオリンピックでアメリカより多くメダルをとるために「一流の心理的スキルを体系化し作成したプログラム」が始まりで、ある種心理的な「型」を作ったのである。この様に体系化して、「型を作る」ということは世界中で行われている。また、メンタルトレーニングのプログラムにも「守・破・離」に至極似た考え方を発見できる。心理的プログラムはまず、スキルとして学び身につけるのが初級編、自分の中に生かし身につけ独自の方法を探すのが中級編、自分のオリジナルを完成させるのが上級編である。これは、日本人が物事の習得の段階を世界的にみてもいち早く体系化し、言語化していたことを表すものとも言えるだろう。
 それでは、海外の指導に於いて型というのはどのような役割を持つだろうか。ここでは、個人バスケットスキルのスキルの獲得の体験と絡めて述べたい。まず、私の日本のイメージは師匠の持っている「型」を学び「答えのあるものをひたすら追求していく」というものである。そこから「〜流」だとか「破門」だとか言う言葉が出てくるのだろう。一方、アメリカ人の指導者は多くの方法を「形」として紹介し、選手に50~60%まで身につけさせていく。もちろんこの段階でこの身につけさせた技術を試合で生かすのは難しい。その中で、学習者自身が気に行った動きを100%にまで高めていくという作業をする。アメリカで、「多くの技を紹介してある程度できるようにすることで、知識と技術の幅を増やせ。その中で自分の心地よい(あった)技をみつけて自分のものにして試合で使えるまで高めろ」ということを教わった。どちらが良いというわけではないが、海外の方が選択肢を多く与えられて、自分で選んでいくという作業が必要になると感じた(個人的には、アスレチックが人それぞれ違うので海外流のほうが好みである)。ある種スキル獲得の上では「浮気」が許されるという文化がある。例えば大学教授は学部、修士、博士と同じ大学には通うことがほとんどない。多くの環境を学び「答えを探す」というのが向こうの文化なのだろう。そういう部分では「(多くの物を)見て、(何が良いか)選び、(自分の型を)作る」というのが海外の方法と言えるのではないか。


3.2つの練習法
 私は、バスケットの練習をするとき、練習をwork out とpracticeに大きく2つに分けて考えている。
work outは自分の中で「意識し身につけることを無意識化していく作業、また動きを自動化していく作業」である。これは型を身につけるとき「有心から始まり無心を目指す」ということと共通する部分がある。自分の意識する部分を繰り返し行い自動化していくのである。また、時に意識せずに考えずに自動化を目指すこともある。これは言葉で表すと「量をこなし質化していく」ということになるだろう。同じ動作を何も考えずにひたすら行い、勝手に上手くなるということだ。型という言葉を使えば「型」を身につけていく作業である。以上が私の考えるwork out である。
 Practiceは身につけた技術が本当に無意識化できているかを試す場面である。この時は完全に意識は技術のことにはとらわれないようにする。言いかえれば、型が無意識で発揮できるかを試す場である。例えば、練習の中で行う試合形式のもの、一部の対人形式はこのpracticeにあたり、このpracticeで自分のwork outが正しかったかを判断するようにしている。まだ自動化されず身につけられていない型はwork outに戻り繰り返し身につける必要があるのである。
 多くの指導者や選手がこの考え方の分類をしていないと感じる。これを分けた時には、自分が意識や気持ちをどうもっていけば良いかが変わってくるのだと思う。日本には心技体という言葉が存在し、3つを分けて考えることがある。もちろん心理的スキルとしての心をコントロールする技術は存在するが、自動化した技「型」をwork outで身につけていると感じられた時、やり残したことがない、「無心」を得ることができ、最高のパフォーマンスが発揮できるのではないだろうか。

posted by レポートドットコム at 23:01 | Comment(0) | 武道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バスケットボールの型

■バスケと武道の型について■武道=戦いの中で人間が古くから身につけてきたもの→極められたもの
バスケットボールの歴史=100年と少し→発展途上
 バスケットボールでは新しいシュートの打ち方や、ドリブルの仕方、変化が著しい。まだまだ、「技」が「型」になり、なかなか受け継がれていくという状況ではない。新しいものが登場していく。歴史的な背景の違いがある。

■個々の個体差の中での型■リングの高さが定まっていてコートの大きさが一定である。そして、ボールの大きさも一定である中で、個人の体の大きさや身体能力の違いがある。その人のみがこなす技というのが存在する(EX.マイケルジョーダンのフェイドアウェイシュート)。また、身体能力が低い選手ゆえに生み出したと思われる技術や型がある(EX.クイックシュート、フローターシュート)。また個々で戦術中に役割が存在するので、個々が身につけるべき「型」も変わってきて、コーチによっても、好みがある。 それ故に「Signature move」という言葉が存在するように、十八番的なものが多く、それぞれ特徴がある。 そこがバスケの面白いところ。

■チームとしての型(型というものを組織として考えた時)■戦術(フォーメーション)を持つことで、組織としての共通理解が深まる。チームとして、無理、ムラ、無駄のない攻め、守りを展開することになる。また、型を持つことにより、プレーヤーの選択肢の数を減らすことになるという有効性がある。チームとして成熟していく中で、自然と戦術(フォーメーション)からの派生やオプションが生まれてくる(破・離)の部分。型と言うと個人の型をイメージするが、チームや組織としての型も存在するのではないか。

■グローバル化、科学の分析が進む中での型■科学の分析により、すごいと思われていた技、「型(フォーム)」がなぜすごいのかについて分析されるようになった。とくにNBAにおける科学的分析は凄く進んでいる。また、その分析や「型」をダイレクトに全世界のプレーヤーが学ぶことができる。ただ、一方で個人の感覚を教わることによりできなかったことが、一気にできるようになるという面もあるので、感覚という部分も「型」を教わる、教えるという部分で大切な要素である。

■型を教えるコーチング■教える中である程度、系統立てをし「型」を持つことにより、指導がしやすくなる(EX.ドリブルで相手を抜くときの抜き方の指導法で、守りがこう来たらこうだよとか)。またその「型」を教える時には「意識」に問いかける方法と「無意識」に問いかける方法があり、どちらが学習者にはまるかはわからない。両方の指導方法を持っておくべきである。
posted by レポートドットコム at 22:57 | Comment(0) | 武道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今後の柔道のあるべき姿

 本章までの拙い知識の中で、私が考える柔道の進むべき姿を考えてみたい。柔道の創始者である嘉納治五郎は「時代の流れの中」でのあるべき姿を考えてきた。世界のスポーツ柔道の中で、「勝負」をしていくことは柔道発展のためにも間違いなく大切であり、それが時代の流れなのだろう。その中で、柔道は「スポーツ」であるととらえるべきだ。それができないならば、「柔道」の国際大会に出場するべきではなく「嘉納治五郎柔道」という新たな種目を日本で作るべきだ。今後、日本はスポーツの柔道を発展させていくべきであり、そのスポーツのとらえ方を見直さなければいけない。ただ柔道の母国日本で行う柔道として、柔道に携わるもの、特に指導者は柔道の歴史を学び、そこに存在した、嘉納治五郎の精神を持ち、スポーツ柔道の枠組みの中で生かしながら、柔道に接するべきである。
posted by レポートドットコム at 22:54 | Comment(0) | 武道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勝利至上主義の柔道と体罰について 

 本書では「勝利至上主義」が体罰の温床になっていると帰結している。そして、柔道中での体罰について言及している。私は、「勝利至上主義」に体罰の原因を帰結させることには少し違和感を覚えた。私は武道経験者ではないのでわからない部分も多いのだが、武道は戦うものなので体罰が生まれやすい場所なのかもしれない。ただ、体罰はどの競技でも起こっている。そして、何より「勝利至上主義」であっても体罰の存在しない世界は世界を見渡せば、いくらでも存在する。体罰の問題の根底に存在するものは、柔道に対するとらえ方、スポーツに対するとらえ方の問題である。これは武道のみの問題ではなく、日本のスポーツ界全体が、「スポーツとは何か」を見直さなければいけないものである
posted by レポートドットコム at 22:52 | Comment(0) | 武道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「嘉納治五郎」が目指した「講道館」と現在の柔道 

 嘉納治五郎は多くの古流柔術が存在する中「講道館」を設立した。柔道の目的は、勝負・体育・修身としていたが、晩年には、精力善用・自他共栄という言葉に凝縮されていった。また、嘉納は武術のフィールドの伝統の中で合理性や科学性をとりいれ、武術を近代社会への適合させていった。そして、戦後は端的に言うと「スポーツ化」されたものとして変化していった。私としては、現在の柔道は創始者の嘉納治五郎が考えた「理念」が全て継承されているわけではないと感じた。ただそれ自体が悪いことではない。なぜなら、現在は柔道が世界的に発展している状態であり、そのスポーツ柔道はスポーツとして大きな価値を持つからである。

posted by レポートドットコム at 22:51 | Comment(0) | 武道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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