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2015年01月05日

how language are leaned 言語習得のレポート(英語)

 
We Can Acquire Earlier What We Are Interested In

We learned three main theoretical positions to explain first language acquisition: behaviourism innatism and interactionist hypothesis. Every theory are logical and I was convinced of these but I believe the most effective and important way to acquire first language is interaction because the child who is leaning first language can be center of conversation.
People can remember and keep something which we like. For example, I love basketball but I am not crazy about science. I remembered the name of Michel Jordan and specific rules just one time and never forget these but it is easier to forget about science like H2O means water or the person who discover the law of gravity, Newton and what it is. Here is a suitable argumentation about Jim. According to How Language are learned “He was hearing child of deaf parents, and his only contact with oral language was through television, which he watched frequently. The family was unusual in that the parents did not use sign language with Jim. Thus, although in other respects he was well cared for, Jim did not begin his linguistic development in a normal environment in which a parent communicated with him in either oral or sign language. A language assessment at three years and nine months indicated that he was well below age level in all aspects of language. Although he attempted to express idea appropriate to his age, he used unusual, ungrammatical word order. When Jim began conversational sessions with an adult, his expressive abilities began to improve. (Lightbown, and Spada 22)”. Obviously he was passive and TV was going on even if he is not care about it when he was watching TV. On the other hand he is active, talking with adult. For example, this is one example of acquisition: how child learn milk is milk that I suppose. Child who don’t know the word of “milk” is crying and Mother ask “milk?” and give milk. Then he may understand what is white and mom give me is milk when I am hungry. Once again when he was hungry, he may cry “MI..” and parents ask “oh, you mean milk”. And he recognizes the difference between pronunciation he did and that mom did and modify it later. In this conversation lead is the child and they talked about the topic in interaction is what the children is interested in or need to say like milk. Interaction is important to learn first language because when in it people talk the topic which child is interested in and people talk for child.
I do not say the other two theories are failed but I can say we cannot get something when we are passive to learn. No, we need to be active to learn. In this point I believe interaction is the most important thing to acquire first language.



これは第四版の電子ブックです

Works cited
Lightbown, Patsy M., and Nina Spada. How Languages Are Learned. 3rd. Oxford: Oxford UP, 2006. 22. Print
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SLAにおけるinputとinteractionの役割から日本の英語教育

SLAにおけるinputとinteractionの役割から見た日本における英語教育

 私たちは,日本で行われている英語教育について,議論することがある。私の経験では,議論の多くは中高で6年間学んだのにもかかわらず,英語を話すことができないのはなぜかなど,否定的なものが多い。近年において,様々な理論や考え方に裏付けされた新たな教材が開発されたり,入試問題にリスニングが多く登場するようになったり,小学校から英語教育を導入されるなど,日本における英語教育も少しずつ変化が起こっている。しかし,多くの場合中学校,高校で行われている英語教育は,文法を学び,英語を日本語に訳していくということが中心であり,リスニングの能力向上のためには,多くの場合リスニングのみを行っている。この様な英語教育がはたして,学習者の英語力向上につながるのだろうか。私は,このレポートを通し,inputとinteractionが第二言語習得(SLA)にどのような役割を果たしているかについて考察し,日本の英語教育へ示唆できる点について論じていきたい。
 まず,inputとinteractionはSLAにおいて,どのような役割があるのかについて説明していきたい。これに関しては,観点ごとに考え方が異なり,行動主義的観点,意識主義的観点/生得論主義観点,相互作用的観点のそれぞれの立場におけるinputとinteractionの役割が違う。
 初めに,行動主義的観点についてだが,「行動主義は,1940年代から1970年代まで,特に北米で第二言語及び外国語教育に強力な影響を与えた。」( “Behaviourism had a powerful influence on second and foreign language teaching, especially in North America, between 1940s and the 1970s.” 1)) (Lightbown, and Spada 34)ものであり,この観点では、「学習者を”language producing machine”とみなし,inputとはstimulus【刺激】とfeedback【フィードバック】を意味する。2)」(External Factors in SLA(2) 1)そして,学習者はその刺激(言語形態やパターン)をまねすることで言語を身につけるというものだ。一方,フィードバックとは,学習者への話し相手の反応であり,学習者のout putが正しかったかどうかを学習者自身が分析するためのものである。この観点では学習者の内在的な言語処理は考慮されず,言語は,言語活動は刺激の真似をし,フィードバックを得ることで身につけられるものであり,interactionやoutputは重要なものではないと考える。
 次に,意識主義的観点/生得論主義観点についてである。これらの観点は,「人間は生まれながらにして,言語を習得する能力を有しinputは,その能力を伸ばすためのtrigger【きっかけ】にすぎないという観点3)」(External Factors in SLA(2) 1)である。つまり,人間はChomskyが提唱したUniversal Grammarのように,人間は生まれ持って,言語を習得できる機能(UG)を有するため,input (ここではtriggerのこと)が与えられれば,完全な文法を身につけることができるという観点である。逆に言えばinputが行われさえすれば言語が習得されるということである。
 意識主義的観点/生得論主義観点に立つ代表的な人物は,ChomskyのほかにKrashen がいる。Krashenはinput hypothesisを提唱した。「input hypothesis は理解可能かつi+1の言語に触れる時,習得は起こる」(the input hypothesis is that occurs when one is exposed to language that contains i+1. 4))(Lightbown, and Spada 37)というものである。ここで言う,iとは学習者のことであり,+1とは学習者の持っているレベルよりも少しだけ上のレベルということである。彼はまた,inputを受け入れる感情的状態や動機が必要であることや,話すことは言語習得の結果であり,その原因とはならず,学習者のoutputは言語習得に直接役に立たないとのべている。つまり,この観点では,inputが与えられると人間の生まれ持った機能にきっかけを与え,言語を習得していくという考え方で,この考え方に於いては,interactionやoutputは言語習得に影響を与えないものとされている。
 最後に,相互作用的観点であるが,これは「言語環境(外的要素)と学習者の内在化されたメカニズム(内的要素)が複雑に相互作用した結果,言語は習得されるという観点5)」(External Factors in SLA(2))である。この観点では,inputの役割は,これまで取り上げてきた観点よりも小さく限定的である。Longは言語習得のためにはmodified interactionが重要であるとのべている。なぜなら,interactional modification(修正)がinputを理解可能なものにし,この理解可能(comprehensible)なinputが習得を生み出すので,結果的にinteractional modificationが習得を生み出すからである。つまり,Longは言語習得に於いて,ただ単にinputを行うよりも相互関係の中で行う方がより重要であると説明した。
さらに,Swainはもう一歩進んだとらえ方をして,Comprehensive Output Hypothesisの中でアウトプットにより正しい文法知識を得る機会が与えられるとのべた。また,アウトプットにより,流暢さや自分は何ができていて何ができていないかの気づき,新しい単語を使ってみようなどと考える自己学習効果,さらに言語のことを言語で考える客観的分析が起こると説明した。相互作用的観点についてまとめると,この観点ではinputは必要なものであるが,outputやinteractionの中で,難しいinputがcomprehensive inputになる。さらに,outputを通しより正確な文法知識を得る機会が与えられるため,interactionやoutputがより重要と考えられる。
これまで3つの観点における,inputの役割の捉え方やinteractionの重要性についての考え方の違いについて説明してきた。結論から言うと,とらえ方の相違はあるにしても,どの観点から見てもあるレベルではinputはSLAに於いて必要であると言える。また,相互作用的観点から見てinteractionやoutputが非常に大切であるということも十分に理解できる。では,これらをふまえた上で,日本の英語教育について考えていきたい。
まず,文頭で述べたように,日本において多くの授業が英文を読み日本語に訳していくという形で進む。実際の大学入試で求められる英語力も,訳読の力や文法知識を問う問題が多いのでこの様な形態になるのだろうが,多くの場合,演繹的に文法の説明をして,訳読する力を身につけ,英文を日本語に訳していく作業が一般的な日本での,教科教育における英語のスタイルである。このスタイルはinputの量が多いと言えるスタイルではない。すなわち,行動主義的観点,意識主義的観点/生得論主義観点,相互作用的観点全ての観点から見て,理にかなっていない。行動主義的観点では,十分な刺激がなく,真似をする量も少ない。また意識主義的観点/生得論主義観点や相互作用的観点から見ても,inputの役割を全うできないだろう。
また,リスニングの教材などでリスニングの授業を行うことがあるが,私の経験から言うと絶対量(inputの量)が少ない。また,訳読の授業でも,リスニングの授業でも,生徒がoutputをし,生徒が生徒間や生徒と先生の間で英語を使ってコミュニケーションをとるということはまれである。これは,相互作用的観点からみて,重要であるinteractionやoutputが行われていない状態である。
日本の英語教育の方法はしばしば議論の的になり,多くの問題点が指摘される。inputやinteractionという視点から日本での英語教育を考えた時,inputの量が少なく,interactionについてはほとんど行われていない状態だ。これまで述べてきたように,inputやinteractionは英語を学ぶ上で非常に大切な要素であり,これらの要素を十分に含んでいない日本における一般的な英語教育は,あまり効果的でないと考えられる。日本の多くの場所で行われている英語教育をより良いものにしていくには,英語は実技であるという認識を持ち,生徒がinputの量を増やし,英語を使い積極的にコミュニケーションをとるようなinteractionやoutputをする場が多い授業をおこなっていくべきだ。



引用文献
1)Lightbown, Patsy M., and Nina Spada. How Languages Are Learned. 3rd. Oxford: Oxford UP, 2006. 34. Print
2)レジュメ(External Factors in SLA(2))
P1より
3)レジュメ(External Factors in SLA(2))
P1より
4)Lightbown, Patsy M., and Nina Spada. How Languages Are Learned. 3rd. Oxford: Oxford UP, 2006. 37. Print
5)レジュメ(External Factors in SLA(2))
P1より

参考文献
Lightbown, Patsy M., and Nina Spada. How Languages Are Learned. 3rd. Oxford: Oxford UP, 2006.

こちらが第四版の電子書籍版です。
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2015年01月04日

言語・言葉の変化(文化の影響)「ら抜き言葉、さつきことば、英語、慣用句」

言語や言葉の変化について書いたレポートである。
特に「やばい」「ら抜き言葉」「さつきことば」「英語」「慣用句」などのことばの意味の変化や文化との対比などについてものべているものである。


言葉というのは変化するものである。変化といっても、さまざまな変化があるが、代表的なものでは「やばい」という言葉があげられるだろう。やばいはもともと「不都合である。危険であるさま(注1)」という意味だったが、90年代から「すごい」の意味が派生し、肯定・否定問わずに「やばい」が用いられるようになった。このことは広辞苑の改訂による変化にも表れている。2008年に刊行された「広辞苑」第六版にやばいが肯定的に使われることがあると書きくわえられるかどうか議論されたことは、ニュースでも取り上げられた。広辞苑は改定時に採用される新語にあっては、その言葉が一般的に日本語として定着しているかどうかの目安とされることがあるためこの「やばい」という言葉が一般的に日本語として定着したということを出版社が議論したということである。実際に広辞苑第六版には肯定的な意味は掲載されていないが、他の多くの辞書には肯定的な意味でも使用すると載っている。また、広辞苑は1998年に刊行された第五版の23万語余から、第六版では24万語余と約1万語も増えている。わずか10年の間に1万語もの単語が生まれた(広辞苑では一度登録した単語は財産のために削除はされない)。加えられた単語を見てみると、着メロ、フリーターなど現在の文化を表すものも少なくない。このように私たちの周りで、日本語は日本が変化するのと同じ速度で、急速に変化を続けている。また、のちに掘り下げていくが、変化は単語にとどまらず、文法にまで及んでいる。具体例としては、「ら抜き言葉」「さ付き(入り)言葉」などがあげられる。私は、このような日本語の変化を、認知言語学、特にカテゴリー化を通して分析していきたい。
まず、ここで言語と文化の関係について、考えてみたい。一般によく言われることだが、言語は文化を顕著に表わす。第4回の授業内容でも、触れたことだが、言葉の切り取り方は、地域によって様々である。それを顕著に表すのが、虹の色の数である。虹の色を「2色」で切り取るか、アメリカのように「6色」で切り取るか、日本のように「7色」で切り取るかである。2色に識別する地域の人が、7色の違いを見分けられないというわけではなく、虹の色の切り取り方が違うのだ。これを、構造主義者のフェルナン・ド・ソシュールの言葉を借りると「一般にコトバと呼ばれているものは、世界を区別する記号としての語のことであり、言語とは、記号としての語の相互関係から構成される体系のことにほかならない (注2)」つまり、混沌(カオス)に言葉が秩序を与えるという意味である。言語が文化を表すというのは、言葉が切り取られ方、秩序の与えられ方よって、文化の違いが表れるという意味だ。私が考える中で、最もわかりやすい例としては、「兄弟」という例があげられる。英語では兄弟のことは歳上でも年下でも「brother」という。対して日本語は、「兄弟」という言葉に加え「兄」や「弟」というように表現できる。また中国語では、兄弟のことは兄を「  (注3)(gege)」と言い弟のことは「弟弟(didi)」と表す。また中国語では父方の伯父さん「yeye」叔母さん「nainai」と母方の伯父さん「laoya」叔母さん「laolao」の表し方が違う。これはアメリカ、日本、中国の順に自分たちの血筋に対しての思いの強さが表れていると言っても過言ではないだろう。中国、日本では、昔から長男が家を継ぐという文化が定着している。そのためにこのような、兄弟の切り取られ方がされるのだろう。また、叔父叔母の表現方法が父方と母方で違うのは、古くから根強く伝わる儒教の考え方などが反映しているのではないだろうか。このように言語は、文化を表しているといえる。
それではどのような文化の変化がおこっているのであろうか。この20年間で携帯社会になり、インターネットが普及し、グローバル化が進んだことが、一番の変化である。また、様々な機能が発達し、いろいろなものが簡便化した。例えば、大型のショッピングモールができたり、交通が発達したりしたことなどがあげられるだろう。では、この文化の変化が、言葉の意味をどのように変えていったのだろうか。一つ目は、新しい文化の普及により、新しい単語が増えたことがあげられるだろう。先ほども挙げたが「着メロ」「フリーター」などがよい例である。また「デパ地下」など新しい単語が生まれた。このように文化の変化によって、新しい単語が生まれる。つまりカテゴリー化という面からみると、新たなカテゴリーが登場していくということである。また、第7回のスキーマの授業で取り上げたが、「Eメール」の出現により、「何らかのプロトタイプが『拡張を受けたものであるということができる』(注4)」。これも文化が、カテゴリー化を変化させたものであろう。また変化は言語が増えるのみならず、使われなく、減っていくことでも、おこっている。それは、国語の授業での古典の授業で単語を新しく覚えなければいけないのを考えれば、当たり前のことだろう。
言葉の変化は、前述した、単語レベル以外においても、起きている。変化をしたと言い切ってよいのかわからないが、「気が置けない人」という慣用句の意味するものが本来の辞書的な意味から変わってきている。広辞苑で気が置けない人とひくと「気づまりでない。気遣いしなくてよい。(注5)」という意味のほかに「近年誤って、気を許せない、油断できないの意でもちいることがある。(注6)」と出てくる。私は、今後この気が置けない人という言葉が、後者の意味が世俗で使われるか、もしくは、両極の意味を持つために話し手と聞き手の意思疎通が難しいため、使われなくなるのではないかと考えているのだが、このように慣用句のレベルでも、変化が起きている。このような後者の意味の使い方は、若者に多くみられるようだ。私も、後者のほうが、ぴったりとする(もともとの意味も理解はしているが)。これは、同じ日本語を話す日本人の中でも、意味の切り取り方が違う(この場合は真逆)時もあるものを表す一例である。変化は、慣用句にとどまらず、文法にまで及んでいる。文法の変化の例として「ら抜き言葉」「さ付き言葉」を挙げながら、掘り下げていきたい。
「ら抜き言葉」とは「見れる」「着れる」「食べれる」などの「ら」が脱落する表現はその顕著な例の一つと言える。ら抜き言葉には、賛否両論である。パソコンで文章を打つ時に、「ら抜き言葉(たとえば見れるなどを)」と入力すると、下線が出てきて、「ら抜き」と教えてくれるシステムがあるように、まだまだ公の文章として、使われるべきでないという見方もあるようだ。しかし、一方では4人に1人以上はら抜き言葉を使うという調査(注7)もあり、ら抜きが定着してきたともいえる。また「ら」抜きが行われようと行われなかろうと、コミュニケーションが成立するというのもまた事実である。「ら」抜き言葉が今後どのようになっていくかは、わからない。しかし、千葉貢氏らは「情報網などの発達により、今日の社会は<迅速であること>が美徳であり、<煩雑であること>は敬遠される風潮にあります。同じ物や同じ情報の所持、取得によって生活が単純化、単調化、画一化の傾向にあるといえます。それは少なからず、言語表現にも影響したのでしょうか。現在アクセント、音韻、文法など様々な面で変化が起きていますが、ここでもその特徴を<単純化>ととらえることができます(注8)」と述べている。このように文化は文法までも変化させる。
次に「さ付き言葉」について見ていきたい。「さ付き言葉」の例を挙げると、「子犬を抱かさせてください」などである。これについての記述も少し長いが、引用したい。「この『さ付き言葉』は、簡略化や合理化、有力化に逆行する現象です。この要因について考えられますことは、謙譲表現に伴うことだけに少しでも丁寧に話そう、少しでも多く深く謙遜して相手の心に取り入ろうとする、自虚的な心理の表出であり、自傷的な言語行動ではないかと思うのです。この要因は多様化する組織の中で生きなければならない人間の過度の心遣いであり、高度情報化社会と言われる『情報』に対する過剰な反応だと思います。(中略)自己を必要以上に蔑み、謙ることによって相手の人権や人格を尊重しようという、『平等の実現』『個性の尊重』『思想および表現の自由』などと目標に掲げ謳いながら実施してきた民主化や民主主義の教育による『博愛の精神』『敬愛の精神』『思いやり』『心遣い』などの『心』の具現であろう、と言っては皮肉に聞こえるでしょうか。(注9)」人は、主に母国語で物事を思考するだろう。文化の変化によって変化した文法を用いて、思考を行えば、出てくるものも違ってくるだろう。
言葉の意味の変化は、日本においてだけのものではない。日本語では代表例として「やばい」を取り上げたが、英語では同じような使われをされているもので「bad」が挙げられる。ちょうど、日本語の「やばい」と同じように基本的にはマイナスの意味で使われる。しかし「bad boy」などと表現したときには、文脈によると、格好いいという意味のニュアンスが含まれるときがあるようだ。このように言語の変化は日本語に限ったことではない。すなわち、プロトタイプの拡大は日本語以外の言語でも行われるのである。
これまで、実例を挙げながら、様々な言語の変化を見てきた。日本語では、単純に若者と高齢者の言葉を比較するだけで多くの言語表現の違いがみられる。迅速であることが求められるこの社会に生きる若者と、それ以前に生きてきたひととの言語が異なるのは、言語が文化の影響を受けるのならば、うなずけることだろう。また今回のレポートでは触れられなかったが、方言が多いのも日本語の特徴の一つで、これも歴史と関係している。言語は文化の影響を受けながら、文化とともに変化する。言語が変化するということはカテゴリー化という面から考えると、フェルナン・ド・ソシュールの言葉を再び使うならば、秩序の与えられ方が変化するということである。つまり言葉の変化はまず、文化の変化によって、秩序の与えられ方(カテゴリー化のされ方)が変化する。そしてその秩序の変化によって言葉の変化が起こるのである。また、切り取る地の部分(カオスの部分)が増えることが、新しい言葉が増えるということであり、減るということが言語の消滅ということであろう。言葉が文化を表すことは前述した。現在日本語は急速に変化している。言葉の変化自体が必ずしも悪いことではないが、カテゴリー化のされ方が急速に変わり、新しい様々なプロトタイプが生まれている。この変化は日本社会が急速に変化していることを表しているのではないだろうか。

 


引用文、脚注
注1広辞苑第5版「やばい」より
注2現代思想のパフォーマンス T章フェルナン・ド・ソシュールp37二行目から四行目
注3パソコンでこの字の打ち方がわかりませんでした。
注4レジュメより
注5広辞苑(第五版)「気が置けない」より
注6広辞苑(第五版)「気が置けない」より
注7国語表現のひずみ 第一章 第四節の調査より(1995年のデーター)
注8国語表現のひずみ p81二行目から五行目まで
注9国語表現のひずみ p54三行目から十五行目まで(途中、中略)



参考文献
現代思想のパフォーマンス  ○著難波江和英 内田樹  (2004、光文社新書)
言語表現のひずみ 現代言葉遣い事情  ○著千葉貢 唐戸民雄 河内昭浩
http://gogen-allguide.com/ya/yabai.html 
http://homepage3.nifty.com/itako/omel-rice.html 

posted by レポートドットコム at 23:20 | Comment(0) | 言語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メタファーの意味、定義、役割がよくわかる。スポーツ中の例を挙げたレポート

メタファーというのはよく聞きますね。比喩?という意味というのは分かる人が多いかもしれません。その意味や定義、役割について、スポーツの現場で使われている例を挙げて解説したレポートです。


スポーツの実況中継におけるメタファーの役割

 メタファーは日常生活中の会話に始まり、論文に至るまで様々な場面で使われる。その中、スポーツの実況中継におけるメタファーの役割について考えていきたい。私にとって、スポーツは身近であり、オリンピックなど、種目を選ばずスポーツを見るのが好きで、テレビで放送していると、ついついテレビのまえに釘付けになってしまう。スポーツをテレビで見ていて、実況中継にも多くのメタファーがあることに気づいた。メタファーがどのような役割を果たしているか疑問をもったのがこのテーマを選んだ理由である。
まず、実況中継における具体的な例を3つ挙げておきたい。1つ目はサッカーでのバナナシュートだ。バナナのような曲がる軌道を描いたシュートであるためバナナシュートと呼ばれている。 2つ目はレーザービームだ。イチロー選手の2001年4月13日のオークランド・アスレチックス戦でライトからサードに投げた、素晴らしい弾丸ライナーをアメリカの実況者が「laser beam」と表現したことから始まり、今では日本において「素晴らしい送球=レーザービーム」が定着した。3つ目は「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」である。アテネ五輪で、男子体操団体の日本の冨田選手の鉄棒の降り技「伸身新月面宙返り降り」の時にNHKの実況アナウンサーが、アテネ五輪のNHKのテーマ曲である、ゆずの「栄光の架け橋」の錆び部分の歌詞に出てくる「栄光への架け橋」に掛けて言ったものである。
 では、実況において、メタファーを使う意味とはどういうものだろうか。私は、メタファーを使うことによって、短い単語で言い表すことができ、また印象に強く残るエキサイティングな実況になると考える。すなわち、「コーナーキックからカーブをかけてシュートをきめた」というより「コーナーキックからバナナシュートをきめた」のほうが短いし、印象に残る。また「イチローが素晴らしい送球でランナーをアウトにした」という実況と「イチローがレーザービームでランナーを刺した」とを比較したときも同じことが言えるだろう。3つ目に上げた「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」は流行語大賞にもノミネートされた。これは掛詞というメタファー以外の要素が含まれていたにしても、「栄光への架け橋」という言葉と、「金メダル」が見事にオーバーラップしている。
スポーツの実況中継に於いて、メタファーは欠かせないものだ。それはスポーツにはメタファーを使わなければ言い表しづらい、複雑な要素が含まれているからではないだろうか。スポーツの複雑さを短く、印象的に、かつ分かりやすく伝えるにはメタファーは不可欠である。同時に、実況者の持つイメージや試合状況を短く、印象的に、かつ分かりやすく伝えようとすると、メタファーは自然に使用されるものであろう。このようにスポーツの実況中継は、メタファーを使っている代表的なものであり、必要不可欠なものである。
参考文献http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=4434
http://blog.skeptic.jp/item/425
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