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2015年01月05日

日本国憲法で定められた信教の自由についてのレポート例

信教の自由や人権、日本国憲法でのことについてなどのレポートの例です。
このレポートの序文は個人的なものですが本文は十分に例として参考にしつつ使えるものだと思います。

 私は,物心がつく前に「洗礼」を受けた。そのことは,小学生の僕にはいやだった。もっと普通の家(葬式が仏式で結婚式がキリスト教式の家)に生まれたかったと思っていた時期もあった。理由ははっきりと覚えてないがないが,昔の僕は周りと比較して普通でない自分がいやだったのだろう。そんな僕が「キリスト教主義の学校」に入学して,また高3の時に読んだ遠藤周作の「沈黙」を読み,キリスト教や,神を信じるということを自分の中で理解した。そして今,「私はクリスチャンです」と言える。またそのことが,私のアイデンティティーでもある。その私のアイデンティティーを表現できることは,当たり前のことなのだろうか。
 今の日本は,憲法で「信教の自由」が規定されていて「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。(第20条)」とある。これが,日本国民は,法に反しない限り,どのような宗教を信じてもよいという根拠だ。このおかげで,日本には教会もあるし,お寺も神社もある。これは現代の私にとっては当たり前のように感じるだろう。
 次に,過去の日本を見ていきたい。歴史の中で,宗教は政治の思想統制のために,利用されたり,排除されたりしてきた。聖徳太子の17条憲法から始まり,江戸時代には踏絵などのキリスト教に対する弾圧,明治初期には廃仏毀釈など,挙げていけばきりはないだろう。たった60年前の戦時中でさえ,信教の自由が認められていたようにみえていた半面,治安維持法などにより,制限があった。弾圧とまでいかなくても、キリスト教はアメリカの宗教だという批判があり、天皇崇拝が強要されていた。現在も信教の自由が認められていない国も多い。イスラム国家における信教の自由とは,信教の自由を完全に否定され剣かコーランかを突きつけられることもある。また,大きくメディアが取り上げているが,中国との間で,チベット人,ウイグル人,あるいは宗教関連の組織,または法輪功(気功団体)をはじめ漢民族でもその思想や宗教という問題で迫害を受けている。
 今,日本で信教の自由があるのを当たり前だと思っている人が多い。しかし,それは当たり前ではない。感謝すべきことだ。私は「私はクリスチャンです」と言えることは,当たり前のことだと思っていたが,100年前の日本と,現在の外国と比較したら,凄く幸せなことだ。
 信教の自由を求めるのは、人としてごく当たり前のことである。私にとっては、信教の自由なくして、人権は保障されていると言えない。信教の自由が認められている私たちがすべきことは,今の自分たちが何かを信仰できることに感謝し,異なる信仰を理解して認め合うこと。そして信仰を表現できない人に対して,その人たちのアイデンティティーを保てるように国際社会の中で努力していくことだ。
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2015年01月04日

キリスト教 レポート テーマ:旧約聖書 創世記 神 アブラハム イサク

キリスト教のレポート例です。旧約聖書の創世記についてです。テーマは旧約聖書 創世記 神 アブラハム イサクについてです。
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神を畏れるとは
 何かを信じ通すということは、たやすいことではない。
私は、小さい頃から聖書に触れる機会は多かった。初めのうちは聖書の物語を読んで、こんなの現実にありっこないと思い、正直「キリスト教って嘘ばっかり」と思っていた時期もあった。しかし、親と話し、学校の宗教の授業をうけ、本を読み(遠藤周作の沈黙にはかなりの影響を受けた)、聖書を知識として知るよりも、知識として知り自分として何が言いたいのか解釈していくことが大切だと考えるようになった。そんな私が創世記の「アブラハムの物語(創世記12:1−25:11)」を読み一番心に残った箇所は、22章のアブラハムがイサクを捧げる場面だ。「神は命じられた『あなたの息子、あなたの愛するひとり子イサクをつれて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げものとしてささげなさい。』」(2節)と言う通り、アブラハムはイサクを捧げようとする。実際に一般の人がイメージするように杖を持ち、白いひげを生やした神が現れアブラハムに話しかけたわけではないだろう。では、この箇所から私たちは何を考え読み取ればいいのだろうか。
それは「神を畏れる」ことの大切さではないだろうか。ここで私が考えたのはもし、アブラハムがイサクを捧げなかったならば、神は彼をどのようにしただろうかということだ。神は怒り彼を罰したに違いない。つまり神を信じ、畏れた故に愛する独り子をまもり、祝福を受けることができたのだ。では神とは一体どういうものなのだろうか。「神=something great」と言った人がいる。偉大なる何か、すなわち人間の力を超えた何かということだ。私の中では、神とは、something greatに似たもので「宇宙の法則」であり、その法則の上で人は生きていると理解している。つまり私の中では、「宇宙の法則に従う(神を畏れる)」=「人が生きる規範」になっている。今の時代、この生きる規範を持たない者が多すぎるのではないだろうか。また規範などいらない。自分が楽しければよいという人や、簡単に自分の親を殺してしまう、バーチャルとリアリティーの区別がつかない、そんな人まで出てきてしまっている。そんな世の中だからこそ「生きる規範を畏敬する」「神を畏れる」必要があるはずだ。アブラハムは、やっとの思いで授かった独り子を捧げるほどに、神を畏れた。神に従うことが彼の生きる基準だったのだ。
私は、生まれ育った環境から、「生きる基準、規範」をキリスト教から学んでいったと思う。私は、今まで生きてきて、何度もこの規範に従う、キリスト教の教えに従うことで、救われてきたと思う。自分が目先の欲に流され、悪事を働こうとした時に、この規範が救ってくれた。もし、自分がお坊さんの子供に生まれていたら、それは仏教の「生きる規範」のも生活を送っていたかもしれない。またイスラム教ならイスラム教の規範を持っていたかもしれない。正しい規範(カルト宗教ではなく)ならば、どんな規範でも、信じぬくということで救われることは多いだろう。この、創世記22章のアブラハムがイサクを捧げる物語は、自分の最も大切なものを捧げてまで自分の生きる規範を、畏れる、貫くことの大切さを教えてくれている。
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キリスト教 レポート テーマ:イエス・律法・奇跡・愛・人間・旧約聖書・エルサレム 

キリスト教のレポートの例です。テーマはイエス・律法・奇跡・愛・人間・旧約聖書・エルサレム・十字架などです。


私は「なぜイエスが十字架につけられた」のかについてイエスが行った「重い皮膚病を清めた」という奇跡物語の一つを用いながら,考えていきたい。 その為にまず,この物語の要約を記しておきたい。重い皮膚病を患った人が,イエスに近付き「御心ならば清めてください」と言ったときイエスはその時深く憐れんで手を置いて癒し,その人を清めた。イエスはその事を「誰にも言わないように」と言ったがその人は起こった出来事を皆に言い広めた。
律法の書である,旧約聖書レビ記には「重い皮膚病にかかっている患者は(中略)『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり,その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まわねばならない。(※1)」とある。これは自分に近づいてきた者に汚れを移さぬようにする警告の言葉である。これは律法で決められていることで,律法は当時,神の意思の表れとされていた。しかし,この患者はイエスに近付き清めを求めた。つまりこれは律法違反である。また,イエスのその人を深く憐れんで手を差し延べ,この人に手を触れた行為も律法に反する。イエスももちろんその事は理解していたはずだ。その上で患者にふれ,清める奇跡をおこなった。これらの出来事を周囲の人々はどのように見ただろうか。当時,ファリサイ派にはイスラエルの民は神に選ばれた民という自覚があった。その民族意識を高めるために律法を遵守し,それに反する人を切り捨てていった。すなわち罪の結果が現れた人を切り捨てていたのだ。彼らにとって,律法を守ることに落ち度がないことが,神と完全な関係を創り上げるためのことであると理解していた。ファリサイ派の人から見ればイエスも律法を破り,神と人との関係を冒涜しているように映ったのではないだろうか。
一方,イエスは別の形で神とつながることを望んでいた。イエスは罪人の罪が解放されることが神の国を実現する事であると考えていたのである。だから律法の上で罪になると知りながら,イエスは手を触れていったのである。つまり,イエスとファリサイ派の違いは,イエスは罪人と繋がり,ファリサイ派は罪人を切り捨てたことにある。イエスの行為が律法に添っているかどうかは別にして,清められた人にとっては、「イエスが私を顧みてくれた」という実感を持っただろう。これは彼が一つの救いを経験したとも言える。すなわち,彼はイエスによって自分を取り戻すことが出来たのである。少なくとも,彼にとってイエスは救い主だった。
ここで思い皮膚病を清められた人はイエスの「誰にも何も話さないように気をつけなさい(※2)」という言葉に従うことが出来ず,「大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めた(※3)」。その結果,イエスはファリサイ派により町に入ることを禁止された。しかし,町の外でもイエスは,周囲の病人や悩みを抱えたり弾圧されている下層階級の支持を受けるようになる。自分たちの体制を崩されることを恐れた支配階級やファリサイ派の人々は,イエスを危険人物と見なし殺害する機会を探すことにつながっていく。このことがマルコによる福音書にも次のように記されている。「ファリサイ派の人々は出ていき,早速,ヘロデ派の人々と一緒に,どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(※4)」
宣教の初期にガリラヤ地方でこのような対立を引き起こしたイエスは,やがてエルサレムに上っていく。そこでもファリサイ派とイエスの対立の点は一層きわだってくる。マルコによる福音書によれば,エルサレム神殿に上って行ったイエスは,ファリサイ派や祭司たちをはじめ,ユダヤ教の指導者たちと激しく論争をした。その結果,マルコによる福音書にあるとおり「さて,過ぎ越し際と除酵際の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは,何とか計略をたてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。(※5)」。実際にイエスは過ぎ越し祭の日に捕まり,十字架につけられた。ファリサイ派とイエスの考えが異なり,イエスを支持する人が増えていった事がイエスの十字架をひきおこしたのだ。
ファリサイ派の人は律法を遵守していた。一方,イエスは自分の目の前にいる人の痛みや悲しみを自分のことのように担うことで神の意思を実現しようとしたと言えるだろう。私はこのレポートに取り組み,キリスト教がイスラエル民族の中でも,下級階層や悲しみやいたみを抱えた人々にとっての宗教の一つになった事は,自然な流れであると思った。一方,キリスト教がユダヤ教の枠を越え,今日全世界に広がっているのは,イエスが律法を越え罪人を癒したことや,彼が十字架を背負い示した「愛」と言うものは普遍的で,世界の人々に共通する想いである事を表しているからであると考えた。

引用箇所
※ 1 旧約聖書 レビ記13章45節以下
※ 2 新約聖書 マルコによる福音書 1章44節
※ 3 新約聖書 マルコによる福音書 1章45節
※ 4 新約聖書 マルコによる福音書 3章6節以下
※ 5 新約聖書 マルコによる福音書 14章1節

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参考文献
聖書資料集 キリスト教との出会い / 富田正樹 【単行本】、新約聖書、○著富田正樹、発行所日本キリスト教団出版局
【楽天ブックスならいつでも送料無料】イエスの生涯改版 [ 遠藤周作 ] ○著遠藤周作 新潮文庫
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十字架への道のイエス ○著川島貞夫 講談社 

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posted by レポートドットコム at 21:55 | Comment(0) | キリスト教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリスト教 レポート テーマ:新約聖書 イエスキリスト 救世主 十字架 レポート例

キリスト教のレポートの書き方が分からないという人にレポートの一例を紹介します。
この時のテーマは新約聖書・十字架・救世主などのいくつかの語を使うことのみ決まっていて、その中で自分の自由にテーマを書いてよいというものでした。 


ここから本文↓
 私は,「キリスト教との出会い、新約聖書、○著富田正輝」をよみ「イエスはなぜ死んだか」そして「イエスは救世主だったのか」という疑問をもった。このレポートを通し,その疑問について考えてきたい。
 まず,歴史的な背景や,イエス処刑までの流れなどを文献のまとめを中心に記していきたい。イエスは,紀元前4〜7年に生まれ,ティベリウスローマ皇帝の時代に(紀元30年頃)ゴルゴダの丘にて十字架刑により処刑された。イスラエル民族は「一言で言うと,周囲の大国に征服され,支配され続けた,小国である。(注1)」。モーセがエジプトを脱出し(B.C.1250年),10戒を受け約230年かけカナンの地にたどりつき,統一王国を築いた(B.C.1020年)。しかし周囲の大国からの干渉などをうけ,2つの大国に分裂し,それぞれ滅ぼされる。そして南王国の主だった住人はバビロニアへの強制移住を強いられた(バビロン捕囚,B.C.587年)。そしてペルシア,ギリシャなど様々な国の支配を受けながら,B.C.63年ポンペイウス将軍のエルサレム占領によって今度はローマの支配下に入った。このように,イスラエル民族は,およそ100年間の統一王国時代を除いて,周囲の大国に翻弄し続けた。
 「そんな歴史を通じて,イエスが生まれた時代までには,イスラエル民衆のあいだに,メシアを待つ期待が相当に高まっていた。(注2)」ここでいうメシア(救世主)とはイスラエルを解放してくれる人,ローマ帝国から独立させてくれる英雄のことである。そのような歴史的背景の中,洗礼者ヨハネの後継者とも見える(ある意味で誤解された)イエスに民族指導者としての期待が集まった。すなわち,イエスがイスラエル民族の英雄としてのメシアになることを民衆は期待していたのだ。しかし,イエスは武力ではなく、まったく違った「アガペーの愛」による救いを体現した。このイエスに対する誤解が,イエスを十字架刑に追い込んだともいえる。
「イエス一向はガリラヤで数年間活動した後,エルサレムに上京した。(注3)」エルサレムでイエスはローマ軍を追い払い独立を勝ち取ろうという指導者や,運動家として誤解されていた。そして統治する側からも,いわゆる危険人物としてマークされていた。そしてレオナルドダビンチの絵画でも有名な「最後の晩餐」を経て,「ゲツセネマの祈り」を終えたイエスは,弟子のひとりのイスカリオテのユダに裏切られ,逮捕される。そしてローマから来た総督ポンテオピラトのもとに送られる。ここで「結局ピラトは有罪を立証する自白をイエスから得ることができなかった。(注4)」。そこで彼は,過越し祭の恩赦を利用しイエスを釈放しようとした。しかし,官邸に押し掛けた人たちは別の政治犯「バラバ」を釈放するように叫び始めた。群衆もイエスは自分たちが期待していたようなメシアではないことに気づき始めたのである。群衆は,「愛」などという現実世界に見えないものではなく,「現実の世界」の改善を求めた。すなわちイエスではなく現実的な運動家バラバをもとめたのである。彼はかくして,十字架刑に処された。
 私は,イエスは本当の意味では生涯,誰からも理解されていなかったのだと思う。12使徒でさえ理解していなかっただろう。当時,12使徒も民衆と同じように,イエスが民族解放としての救世主だと信じていた。しかし,現実には何もしない,できないイエスを見てユダは裏切ってしまう。そして,ほかの弟子もイエスを見捨てて逃げて行った。そして,誰からも理解されることがない,裏切られてしまう,という人間として精神的に最もきついこと,また十字架刑という身体的に最もきついことを体験し死んでいった。イエスがここまで苦しまなければいけなかったのは,イエスは自らの人生をかけ「愛」というものを,体現したかったからであると私は考える。十字架の上で,自分たちを死に追いやった者達に対する赦しを願う姿勢,「敵を愛せ」という言葉からもそれを読み取ることができる。そしていつか,弟子たちが自分の死を通して「愛」の偉大さを知り,本当の意味で心から強くなり,「無償の愛」をこの世に広めてくれるのを願っていたのだ。
 また時に,「イエスは私たちのために死んだ」といわれるがそれはどのような意味だろうか。そして文頭に掲げた二つ目の質問「イエスは救世主だったのか」について私の意見を記していきたい。イエスは世の中のすべての苦しみを知り尽くして死を迎えた。これは,私たちが苦しむ時,イエスが罪をともに背負ってくれているという意味をもつだろう。人が生まれながらに「罪」や,犯してしまった「罪」をともに背負ってくれる。そして,それにより人は救われる。例えば,私は日本人だが,日本人はかつて第二次世界大戦中に中国人を虐殺したという過去をもつ。それにより時として,中国人から憎しみの感情を向けられる。その罪は私にはどうすることもできない。ある意味,日本人として生まれたことが,「十字架」を背負って生まれてきたということだ。しかし,その苦しみをイエスがともに背負ってくれている,分かち合ってくれている故に,私たちは生きることができると思っている。そう思うことで,私は胸を張って生きられる。そういう意味ではイエスは「私にとっての」救世主である。「私にとっての」と書いたのは,「イエスが救世主である」と考えない人にとって,前述したような理解はなく,イエスは彼らの力にはならないだろう。信じる者には彼は救世主なのである。これはちょうど,神が沈黙を続けているのと一緒である。神は祈りに応えてくれることはないが(少なくても私の今までの人生ではなかった),神を信じることは生きる規範になる。信じる者にのみ,神はいるのであろう。これが私の「イエスの死」,「神」への解釈である。
(本文2153字、引用177字)

脚注(以下全てキリスト教との出会い、新約聖書、○著富田正樹、発行所日本キリスト教団出版局より引用)
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注1 P14 2行目〜3行目
注2 P15 1行目
注3 P70 2行目
注4 P79 18行目〜19行目
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